昭和54年07月27日 朝の御理解



 御理解 第35節
 「信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日、元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思うて、日々うれしゅう暮らせば、家内に不和はない。」

 家庭に不和のない生活。日々が元日のような心持ち。日が暮れたら大晦日と思い、それには日々の改まりが第一じゃとあります。日々改まった生活神様にも改まって願う。何か特別な人にものを頼むでも、こりゃ簡単に頼むじぁない。改まってお願いに行くというでしょう。そういう意味もあると思うんです。改まって願う同時に私共は日々自分の心の状態と、昨日の一時のミニ御理解でしたよね。
 自分の心の中に信心のともしびがともります。今まで気もつかなかった自分の真っ黒な心の中に、信心のともしびがともされる。その信心の灯をもってした所が、もう限りない自分の心隅々までも見え出した。はぁここも汚れておるなここも曲がっておるな、ここはこんなにも散らかっておる事が分かる。暗い間は分からない。信心というのはそういうもんだ。だから日々、日日改まる事に改まるという心が出来てゆく。
 改まるという事はそれは難しい事のようですけれども、改まった後の気持ちのよさがというものが、私は元日の心だとこう思う。心がすっきりする。それが楽しいのである。それを信心のない間は全然気がつかなかった。人間だからこの位の事はもうあたり前と思うておった。気のつかなかった所に私共が気付かせてもらう、分からしてもらうのです。信心は日々の改まりが第一です。
 なる程十年も信心さして頂いておったら、十年と信心が続いたら、われながら我心を祭れとおっしゃる程しの心が育って来ると思うです。だから信心は物知りになるという事ではなくてね、もう一年一年有り難うなってゆく手立て、それは日々の改まりに私はあると思う。それが元日の心だと私は思う。日が暮れたら大晦日と思うて、あれを反省しこれを思わせてもろうてです、あぁあそこもお粗末だったなぁ御無礼だったなぁ、あそこも一つ片付けておかねばならなかったなぁと。
 それをもう明日に延ばさずにその日の中に処理してゆく。それが私は大晦日の心と思う。だからあくる日のいうならば目覚ましのおかげも、元日のような心で目覚ましのおかげが段々頂けるようになる。心が弾んでくる。あぁ今日も又目が覚めたじぁなくて、もう目が覚め多ということその事が、有り難いとこう感じれる様に段々なって来る。もう既に元日の心が目が覚めると同時に頂かれ、またそういう心がいよいよ深く広く養われていくということになる。
 私はこうやって日々御理解を頂く内に、段々素晴らしい素晴らしいと思う事は合楽理念である。確かに合楽理念は助かりの理念といわれるが、確かに合楽理念は助かりの理念である。今日も嬉しゅう楽しゅう愉快にまでなれれる、しかもそれを行じよう身に付けようと思うたら、誰しもが出来ると言うのですからいよいよもって素晴らしい。その合楽理念の研究生じゃないですけれども、とにかく簡単です明瞭ですしかもおかげが確かです。ということがですね。
 今言います様にです合楽理念をもってするならば、いつも元日の心でおれる。合楽理念をもってするなら、いつも大晦日の思いで一日を締めくくることが出来る。しかも嬉しゅう楽しゅうしかもリズムに乗っての生き方ですから、愉快である愉快になってくる。もういよいよもって合楽理念のいうならば、絶対の助かりの道、和同十全の教えということを感じずにはおれません。皆さんどうでもねだから合楽理念の行者にならなければいけんです。行者と言うとなんかこう大変厳しい事のようですけれども。
 日々の生活の中にです、合楽理念をもって商売をする、合楽理念をもって百姓をする。何々は合楽理念をもってする外はないと、言う程しの内容を身に付けていくと言う事です。楽しい。生臭けを取っちゃならん、酒は飲んじゃならん。もう人間としての幸せと言った様なものを、こう略奪するような宗教がありますね。人間が人間らしゅう生きるしかも元日の心で、大晦日の心でと言うところに焦点をおかげを板ぢて参ります、そこに神様のご信用もつく御神徳儲けられる。
 必要なものが必要に応じて集まって来る、人間の幸せの条件の全てが足ろうてくる、というのですから、それこそ真善美に輝く世界を、私共がもう遠いところのものとせずに、身近なものに感じながら、はぁこの生き方で行けば無病息災、貧相病のない世界、しかも真善美に輝く世界も、至難なものではない。この生き方を一家を挙げて、この道を行くと言う風に、腹が決まって参りますと、その生き方が楽しゅうなって来る。難しいという事じぁない。
 昨日、福岡の高橋さんがここでお届けをなさいましたのに、今朝方から家内がお夢を頂きました。まぁお夢でしたでしょうか御心眼だったでしょうか。御心眼頂いたんですね、それがどういう事を頂いたか、この老人の「老」という字とお月さまの「月」と「梅」とこういう事。まぁ梅の老木とでも申しましょうかね。それにお月様が出ておられるという情景だと私は思いました。そしてあなた達のお部屋に額が上っとろうが、大きないわゆるそのう、ずいぶん年数をくった梅の木が書いてある。
 でその後ろにもうバックの様に、おぼろ月が円るく出ているところの絵である。だからあの事だよと。あれは拝山という人が書いておる。ここにも拝山の御理解がありますでしょう。ね、一回あのお供えを頂いた時に御理解を頂きました。あれは絵ではなくて字ばっかりなんですけれども「養素拝山」という事。「養素」と書いてある。そして書いた人の名前が拝山です。養素拝山という、自分の心を豊かにしてゆく素である。自分の心を養うてゆく素は拝山にある。山を拝むにあると。
 山と言う事はここでは修行と言う事である。日々に起きてくる様々な問題、そのすべてが修行として受ける神愛として受ける。自分の心がいよいよ豊かに大きくなってゆくという手立てはね、この拝山の信心を身につけて行く以外にないですよ。皆さんが大きなおかげを頂きたいと思うのに、こまい心でお願いをしたところで、大きなおかげを頂ける筈は絶対にありません。心が豊かに大きくなるから、おかげも豊かに大きくなってくるんです。その手立てともなりその養素ともなるものは、拝山にあるのです。
 お道の信心は火の行とか水の行とかいう事じぁない。もう家業の行と仰るのだから、その家業そのものを本気で修行として頂く。その家業の中に起きてくる様々な問題がある。それが嬉しい問題もありゃいやな問題もあるけれども、いやだ苦しんだと言う様な問題でも、それを修行として拝んで受ける、合掌して受ける。という生き方を身に付けるという事である。又その事実をですね、論理的なものの上にも探らせて頂けば探らせてもらう程、一切神愛だと言う事が分かってくるんです。
 神様が私共をいよいよ幸にせずにはおかん、豊かな大きなおかげを頂かせずにはおかん、という働きであると言う事が分かって来るから、合掌して受けられるんです。私は合楽でここで頂いておるおかげはね、ただ訳もなしに合楽教会が大きくなってゆくと言う事じぁないと思う。私の心がいよいよ大きく豊かになってゆくに従って、大きくなってゆくのだと思う。御信者の皆さんだって同じ事がいえると思う。何の事か分からなかったけれども、おおかた高橋さんが頂いておる、まぁ老、月、梅、とね。
 だから老梅に月と頂いたがいいでしょう。そりゃ見事な絵が多分拝山という人は、絵書きさんらしいですけれども、大変書もうまい方ですね。ここにあるのは養素と書いてある。高橋さんの部屋に掛かっておる額は絵が書いてある。しかも夜の梅である。しかもその梅は老梅である。その梅の古木に枝がこう出ておる。そのバックのようにその絵一面にです、後ろに大きなおぼろ月が出ているという絵なんです。だから結局、結局どう言う様な事でも拝んで受けると言う事だよ、というてお伝えさせて頂いた事でした。
 私は今日の御理解を頂いてですね、日々嬉しゅうとこういわれる。確かに教祖様の教えを、私共が頂いてそれを頂き良いように、まぁいうならば味付けをしたり、調理をしたりして、皆さんの前に出しておるのが、合楽理念だと思う。だから誰でも頂けるようになってくるのだと思う。すかんという人でも好きになって来るんだと思う。だから合楽理念による、日々であるならば、必ず元日の心は起こって来る。大晦日の心も、心に頂けてくるようになる。
 なる程合楽理念でいわれる、嬉しゅう有り難う、しかも愉快にまでなれれる手立てが、合楽理念だといわれるのが、なるほどそうだなぁと言う風に思うんです。それには先ず何というても、日々の改まりが第一だと言う事なんです。日々の改まりが第一。そこで合楽理念の中にうたわれているところの、五つの願いなんです。皆さんがもう御神前に座って柏手を打ったが最後、必ずこの事だけは、繰り返し繰り返し、頼まにゃいかん願わにゃいかんのです。
 先ず第一に「体の丈夫を願え」。次に「家庭に不和のなきが元」と仰るから、「家庭に円満」をどうでも願わにゃいけん。そして私の代だけじぁない、これが子々孫々にそのおかげがつながっていくように「子孫繁昌家繁昌を願え」といわれます。後の二つはいわば御用の事。又御神願。神様の願い神様のいうならば手にも足にもならせて頂くと言う様な生き方を身につけてゆく。この五つを願うのですけれども。
 んなら体の丈夫を願うと言う事はです、私はこの御理解を頂いて、もう晩の十二時も一時にもなる事がしょっちゅうですから、あのうお夜食やら頂きよりました。昔からお夜食は自分の身を切り売りするようなもんだと聞いてはおったけれども、やっぱり美味しいもんだからついお夜食を作らせて頂いておったけれども、この御理解を頂くようになって数年間、もう私はお夜食というものを絶対しない事を決めました。願うからにはですよ、やっぱりその修行をしなけりゃいかんです。
 どうぞ体の丈夫を願わせて頂くならば、お夜食どんするような事であってはならないと。とこれはいろいろありましょう自分で工夫しなければいけません。私はそういうふうに実行しとります。次には家庭には不和のなきがもと、と。信心には家庭に不和のなきがもと。だから私は人の足元どん見ておったり、人どん責めるような事であっては絶対いけないと思いました。私はだいたい人を責めるという事を致しません。
 けれどもやっぱり何というでしょうかね、言い良か一番家内ですね。家内にゃそげなこつでどうするか、こげなこつじぁいかんじぁんかというて、まぁいうならばこう責めるような事を言うておったけれども。それ以来私は絶対、家内にどうしてそげなこつするかという事をまだ一回も言うた事はございません。この五つの事が語られるようになってから。家内にいわんのですから、他の者には勿論いいません。
 子供達にも言いません。御信者さんにもいいません。責めると言う事を致しません。家庭の円満を願うなら責めるような心どんがあってはいけんです。お前がそこば直すと家は絶対円満にる。絶対そんなこつじぁ円満にはならんです。問題は自分の心の中に円満を頂くという生き方に、神様の限りなきお働きをそこに受ける事が出来るんです。家庭に不和のなきがもと。家庭が円満でありますようにと、それに今日の御理解がそうです。元日の心で大晦日の心でと、言いたい事でも元日の時には。
 よしいうならいろんな言い難か事は言わんでしょうが。だから日々がそれなんです。人を責めんですむというくらい素晴らしい事はないです。だから願うからには実行しなければいけん。どうぞどうぞと願うばかり、その変りに神様に通ずるような、神様に通う様なこれなら絶対通う、人を責めないとか体の丈夫を願うなら、大酒大食は絶食の元といわれる位じぁから、大酒大食など絶対に致しませんと言った様なものがあって。体の丈夫を願わなければ、只どうぞどうぞと願うだけではいかん事を思います。
 子孫繁昌家繁昌を願うからにはです、私共無駄な事というもの、いうならば無駄なお金というものは、自分で身に付けるとかなんかというものには、もう一銭も使わんという生き方を、これは合楽教会全体がそういう生き方を身に付けて言っております。浪費はする遊びには行こごたる。そして家繁昌を願ったっちゃそりゃおかしいですよね。だからそれじゃから楽はしちゃでけんとか、遊びに行ちゃならんとかいう事じぁない。そんならこの頃私はお芝居ども松緑さんのあれに行きました。
 けれどもそこにはね行かずにはおれん、それこそ車からお弁当から一切をもう、それこそ神様が行ってくれといわんばかりに、お膳立てして下さってある。いうならばだから楽はしょうとは思わん、させて頂くという楽が限りなく広がってゆくんです。極楽につながり合楽につながってゆくんです。今日だん芝居見に行こうかと、今日だんいっちょ温泉に行こうかと、そう言う様な事は絶対しない。それを修行とさせて頂いとる。そしていうならば、子孫繁昌であり家繁昌を願わにゃいけんでしょうが。
 どうぞ金のお繰り合わせ頂きますようにち願うて、それこそ少し金が入るともうその浪費をするいらん事に使う。そういう事ではだから子孫繁昌家繁昌を願うても、願い通りのおかげが頂けるとは思えません。そういう意味でです、私は今日は、今日の御理解は、ははぁなるほど合楽の教祖様のいうならこの御教えをです。漠然と頂いたんじゃのなかなかですけども、合楽理念にまとめてある。
 なるほど合楽理念を行じてゆくならば、先ず嬉しゅうなる有り難うなる。しかも愉快にすらなってゆくというのが、今日の御理解にぴったり来る様な思いがします。そして日々の改まりが第一というところに焦点をおく。家庭に不和があってはならない、という円満なおかげを頂く。ここにはおかげの受けものが、いよいよ豊かに大きく美しくなってゆく事ですから。
 そのおかげは願わんでも頼まんでも、それこそ必要な物が必要に応じて、頂けれる人間の幸の条件がだんだん足ろうてくるという、おかげを見る事がでけます。だから楽しゅうなるです。有り難うなるです。その楽しゅうて有り難いという魂が、そのままあの世に行って始めて、極楽であり合楽であると言う風に私は思うです。まぁこの世では仕方がない、あの世で極楽に行こう、そげなこつが絶対に出来るはずがありません。
 魂が助かっておらずしてあの世で魂が助かると言う事はありません。為にもいよいよ元日の心、大晦日の心と、それを合楽理念による生き方を身に付けて参りますならば、いよいよ日々がねそれこそバラ色に見えてくるです。楽しゅうなるです。しかも日々が愉快になってくるです。そして人を責めんで済む、いうならば心の状態が開けてくる。そういう有り難い、いわゆ本当の意味においての、信心の世界に住まわせて頂くと言う事を、願いとしての信心でなからなければならんと思うね。
   どうぞ。